記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Bonne chance(好運を祈る)

今日は三段階理論です。



私は大学進学で哲学科を選んだのだが、あまりまともに勉強しないでいながら、

一応、卒論というものにも辿り着いていてその題材はバタイユという人の「ニーチェ論」だった。

その時、集中的に読解したのがこれ↓

ニーチェについて―好運への意志 (無神学大全)
ジョルジュ・バタイユ
現代思潮新社
売り上げランキング: 717,454


「ニーチェ論」というより、ほとんど「好運論」なのだが、この「好運論」というのが、

「西洋的理性の限界批判」

というもので、その意味では、これはこれで「ニーチェ論」になっているともいえる捻じれた展開。

でも当時、自分も含め(おいおい)周囲もよく全体像が掴めていなかった……のだが、

私は当時から「誤解」されていて、今では更にその「誤解」が、

どのようなところに原因があって為された事なのかもよくわかっている。

つまり人は「賭け」に価値を見出す時、

「計算づくじゃ賭けとして不純だ」

というような発想になる。もしくはなりやすい。

それはそうなのだ。

だが「賭け」の「原動力」になっているのは、それでも……「企図」なのである。

「賭けに勝ってやろう」という意志がなければ、そもそもダイスを振らないのが人間ではないだろうか?

そこのところの「力のせめぎ合い」に当時の周囲は「がさつ」であったので、

勝手に私に対し、

「あいつは好運とかいって企図しているじゃないか?

それに対しそれを批判できる自分たちは批判しているから、

計算も企図も全くしていない純粋な人間として素晴らしいから陶酔!」

という自惚れをいだいていたのだな、という事。

ちょっとでもまともであればわかるよね?

例えばフランクフルト学派が指摘しているのは、そういう批判や指摘という事が、

「それ、既に計算から逃れていないから」

という事なので。

「計算を批判=計算から逃れている」

などというお気楽なものではないという事。これが当時から私には見えていたので、

苛立っていたわけだけど、しかしそう考えてみると、上の動画のCCBの曲が、

「なんか恥ずかしいな」

と感ぜられる理由も自分では(ならではのものとして)よくわかる。

「ラッキーチャンス」

を求める事、それはまあいいです。

ラッキーチャンス……「好運」というのはバタイユ的に見れば、

「西洋的な計算の理性を逃れたところにあるもの」

なので西洋文明に限界が生じている今現在の世の中で、

それを求めるというのも選択肢の一つとしてアリだと思う。

だけどこの歌が中途半端にバタイユ的なレベルなのは、

「もう一度」

と言ってしまっているところ。

ちょっと突き詰めて考えればわかるように、

「もう一度」

というのは「再=現前化」という事であり、これは科学知をはじめとする、

西洋的理性の極めて特徴的な性質に則った願望=欲望であり、

結局、ニーチェ的視点でいえば「ルサンチマン」に他ならない。

「もう一度繰り返せたら」

という事なんだから。

でも、通常「ラッキーチャンス」を求めるという事は、

「自身の経験から出発しがちだ」

という意味では、それは実は「西洋的」とも限らないわけで、

人間の限界のようなものでもあるかもしれない……それがあまりにも偏って、

「過去からずっと同じ事が繰り返されるのがラッキーチャンスだ」

という事になると、それは「人間なのか?」という事にもなってくると思うけれど。

そういう意味でCCBのこの曲は「ラッキーチャンス」の「過去の面」についてという事。

これはこれで一理あるんだけれども、これで全部だとは言えない。

それでそうなると、

「問題は今だ」

という事になる。問題は「過去からの習慣ではない」と。

……本当にそうなの? 「伝統」はどうなるの? という疑問ひとまず置いといて、

「今だ」

という事にしてみよう。

そうすると次のような曲が召還される。



これはこれで実は結構好き。

これは「今の事しか考えていない」よね。

そもそもロックというものは黒人音楽(非西洋)を西洋に持ち込む、

という傾向があるのだから「計算的時間の外にいる」という意味では、

「極めてロックだよなあ」

と思わざるをえない曲だと思う。

それはそれで「一つの可能性」であり認めるところであるが「罠」もある。

ここで扱われている「今」。この曲では「至高の価値」を見出されているけれど、

この、

「今」

というのが、この曲では、

「現前」

しているから、この曲は燃えていられるわけであるよね?

そうじゃなきゃ、こんなに騒がないでしょう?

だけれど「今」が「今」として「確かに現前している」というのが、

西洋的理性の一つの特徴だとして批判している思想家もいる。

「通俗的理解をされたバタイユ」

なんかも「その筋の人」であるけれど「今」が「現前」して、

そこに「確かな価値」を見出して働きかけるのは、

「刹那主義」という名の一種の「計算」が働いていると思われる。

「この今、この刹那が真理でありこの基準に基づいて行動すれば安心」

という「計算」が。

私のバタイユ理解を批判していた「計算の外部にいる」旧知の人々は、

ことごとく「こんな感じ」だったよね。それで勝手にダメになっていくという。

でも、この「今夜至上真理主義」みたいな「安心刹那主義」は、

結局、ファッションや自己弁護、もしくはナルシズムの補完にしか役に立たないと思う。

そんなにディープではないというね。

そういう意味では「現前」が問題ではない、という事だよ。

では「現前」が問題ではないとしたら何だ?

その答えは難しい。

「言えば現前になってしまうから」

という「言語」に関するややこしい問題があるから。

それでも強いて言えば、

「兆候(サイン)」

に基づく「何か」だとは言えるのかもしれない。

そういう意味ではこの曲が呼び出される。



これは特に何らかの実体や具体的計算に結び付くような事を歌っていないよね。

「時のサイン」

というものを題材にしている、ある意味つかみどころのない曲だったりする。

そういう意味では「これが答だ」と言いたいところもあるのだけれども、

……これはもう「個人的感覚」なのだけれど、この曲は、

「ちょっと大仰なんじゃないの?」

というのがある。

もうちょっと別の言葉で言うと、

「パラノイアック」

だというね。これじゃ世界そのものに大変革が(自身の力によって)起こり得ない歌で、

それはそれで立派だけれども、まるで旧来のタイプのマルクス主義における、

一種の個人崇拝のようなものに結び付きかねない勢いだと思う。

「なんかやり方がよくないよな」

という感じがしません?

私はこの曲のような感じというのは好きだけれど、

「世の中、こうは御都合主義的にできていないよ」

と思わざるをえない。

そしてそれは理想の放棄という事ではないはずだ。

「違うやり方が必要だ」

という事。

もっとデリカシーのある道を選ばなければならないのではないだろうか?

「われわれはもはやキリスト教徒ではない。

われわれはキリスト教を乗り越えてしまった。

そうなったのはわれわれが、キリスト教から

あまりに遠く隔って生きていたからではなく、

キリスト教のあまりに近くで生きていたからなのである。

いや、とりわけ、われわれがキリスト教から生い育ったからなのだ。

われわれは今日、キリスト教徒よりもっと厳格で繊細な慈悲心を持っているのであり、

そのためにもはやキリスト教徒にとどまることが

できないのである」

このニーチェの言葉を「キリスト教と西洋科学の関係」から捉えて、

「西洋理性」の問題におきかえれば、下の曲の聴こえ方も重層的になってくるだろう。



ちなみに「理性の問題」とか言いつつ私はこの曲を、

大学一年の時、ギリシャ哲学の講義で書かされた、

「愛について」

のレポートの結末に引用させていただいた。

そういう事であるよ。

ただ、最後でちょっとだけ「ラッキーチャンスじみた話」を書いておくと、

今後の私は基本的に隠居でもして文章や小説と、出来れば絵画ぐらいを、

愛とともに描く生活ができればなあ、と思っており、

その絵画というのも別に油絵に限定されず、イラストからPCを使った漫画まで、

幅広くできればな、と思っている。

ただし、そのためには同時進行的に小説と挟撃できていないと納得できないというのもある。

なので優先順位としては「小説を何とかする」事が重要な戦略的ポイントであり、

そこで勝つ戦術的ポイントは「2作目と4作目に加筆をする」という事。

今日もそれをやりたいのだけれど、薬や体調の問題という、半ば、

「補給線や衛生環境上の問題」

に足を掬われているので、とりあえず戦術以前に、そういう、

「兵站の問題」

を解決するという地味な作業が求められる。

そうした時に「音楽活動」は、一度「切り捨てる」事をする。

厳密に言えば(嫌だな、厳密に言うの)「楽曲や歌詞などの提供はいくらでもしていい」けれど、

自身が「音楽面で主役格になる事」には、昔からの一貫性ある選択だけれども、

特に固執しない、という事。

私は元々「文の人」という「傾向」が強いのだ。

このブログからもそれは窺い知れるのではないだろうか?

とは言いつつ「新しい(未知の)挑戦」に開けていく事も好きなので、

「絵画の世界へと本格的に飛び込みたいな」

とは思っているのだけれど……商売にする道が見つかりきらないし、

そもそも私に商売は不向きなのではないかという疑念。

だが一つ言えるのは、

「最後に挙げた動画の曲だよ」

という事だね。

つまり愛に見込みがある事を信じていたい、という事。

見込みを信じたい事と西洋文明とは、ちょっと違う。

ブロトピ:哲学!

ブロトピ:今日の芸術・人文情報

ブロトピ:今日のブログ更新

ブロトピ:音楽Blog

ブロトピ:J-POPのこんな記事書きました!

ブロトピ:洋楽に関するこんな記事書きました!

ブロトピ:読書に関するこんな記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。